滝坂道を歩く
         (道弦坂からつつじケ丘)
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 道玄坂-松見坂-駒場野-淡島-太子堂-若林-豪徳寺-経堂-八幡山-祖師谷-調布-滝坂-つつじヶ丘 12.68km

滝坂道
 渋谷の道玄坂から分岐し、目黒区、世田谷区を横断して、調布市内の甲州街道,「滝坂」に合流する道です。元々、江戸と武蔵国府のあった府中方面を結んでいた中世の「府中道」の一部だったとされる道で、甲州街道が整備されると、甲州裏街道として使われていました。今では交通量の多い町中の道であるが、石碑など残る面白い道であろうと思います。 約13km。

 2014年4月14日  画像をクリックすると拡大します
 ■道玄坂入口~滝坂道入口
 地下鉄半蔵門線「A0」出口を出ると、ここは●道弦坂入口。道玄坂の名前の由来については、諸説あるのだけど。後北条氏に滅ぼされた「大和田太郎道玄」という人物が道玄庵という庵を造り住んでいたという伝承が通説です。渋谷の地形は武蔵野台地を削った谷が縦横に伸び、坂が多い地形で、いわゆる山の手台地を形成し、渋谷駅は谷の底に所在します。 これから坂を上がり下がりして行きます。少し坂を上がった●交番のある交差点を右に分岐するのが「滝坂道」で、反対側左手に●道玄坂供養碑、道玄坂由来碑、与謝野晶子の歌碑が固まって置かれています。又道玄坂は大山街道(矢倉沢往還)の道筋でもありました。  10:01

 ■滝坂道入口~
 ●道玄坂上交番の脇から滝坂道は始まります。入口右手に「滝坂道」の標柱が立っていたように思ったが、撤去されたようです。 一つ目の角を右に入って行き、左手、「三長」という料亭の角に●「道玄坂地蔵」が立っている。元は豊沢地蔵と呼ばれ、滝坂道入口に立っていました。 "道玄坂地蔵" "説明板"。 さて、更に坂を上がると、今度は●急激な下り坂になり、左手に階段あったりします。 途中、右手へ曲ると、突き当りに、弘法大師像を刻んだ明治19年の "道標" があって、「弘法大師・右 神泉湯道」と彫られています。 右へ曲った先に「神泉駅」があるが、かって、このあたりに湧水が湧いて、弘法大師、空海が開いたものという伝説を生み、明治時代に「弘法湯」という浴場ができた。現在はなくなったが、その浴場への案内道標です。駅名もそれに由来します。
 10:08

   ~松見坂
 再び急坂を上ると、渋谷区と目黒区の境界を過ぎる。 再び急激に下ると、●山手通りに出ますが、その手前の左側に文化9年の"石橋供養塔"が立っています。"説明板"。 元々は渋谷区と目黒区の境界線上に「三田用水」が流れ、そこに架かる橋のそばに立っていたようです。 山手通りを左折し、●松見坂交差点を右折して、淡島通りに入ります。 交差点の角には東京都が設置した"石碑"があり、説明によると、ここに松の木が立っていて、道玄が物見に使って、往来の人々の持物を手下に指示し、強奪していた・・。ということにちなむという。淡島通り入口すぐ左手に●松見坂地蔵尊があります。初代は戦災で被災したため、現在の地蔵の下に埋められている。10:20

 ■松見坂~駒場野公園
 ●松見坂を上って行きます(上から眺める)。通りの北側が駒場1丁目です。「駒場野公園」という公園が二つあります。南側が目黒区大橋で、「都立駒場高校」、「筑波大駒場中、高」などが並んでいます。 駒場はその昔は「駒場野」と呼ばれたところで、江戸時代には広さが15万坪にも及ぶ将軍家の御狩場であり、今の●都立駒場高校付近には御用屋敷がありました。"説明板"  明治維新後は新政府に接収され、陸軍練兵場などが並び、戦後は都内有数の文教地区になっています。目黒区と世田谷区の境界手前に●「〆切地蔵」と呼ばれる地蔵尊が立っています。その昔、隣村で悪病が流行り、驚いた村人たちはここに地蔵尊を立てたところ、誰も病気が伝染しなかったことからこの名前があります。 10:42

  駒場野公園~ 
 〆切地蔵を過ぎると世田谷区池尻に入りました。道の南側で、北沢川と烏山川が合流し、目黒川となって流れます。地名も池尻というくらいで、合流点付近に大きな池があったと考えられます。又目黒川の低地へ下る急斜面となるため、●下代田東交差点付近はかなりの急坂になっています。 淡島交番の前を過ぎ、淡島郵便局の前で道は3つに別れ、滝坂道は左へ下って行きますが、ここで少々の寄道をします。 コンビニの右脇を通って、森巌寺方面へ向います。 入ってすぐ、左手に●朱塗りの門が見えてきます。門だけが保存されているが、このあたりの名主だった「阿川家の門」といい、「せたがや百景」にも選ばれています。広かったであろう屋敷はさすがに住宅地に変っています。 その先右手に●北沢八幡宮が鎮座。文明年間(1469~)、世田谷城主・吉良氏によって創建され、「世田谷七沢八八幡」(七つの沢にある八つの八幡神社の中で随一という意味)とされ、かなり立派な神社です。 11:00

  ~淡島
 神社の先、突き当るのが●●八幡山森巌寺。慶長13年(1608)家康の次男・結城秀康の位牌所として開基された。北沢八幡別当寺でもありました。江戸時代にはお灸と針供養、富士講で名高い寺として知られ、多くの参詣者で賑わったという。 境内の"淡島堂"は仏堂ではなく神社形式で、初代の住職が腰痛のため、故郷の紀州・加太の淡島明神の夢告によるお灸の治療をためしたところ、たちまち快癒したため、境内に淡島明神を勧請し、淡島堂に祀ったのだそうです。松見坂からの「淡島通」はこの堂の名前にに由来します。 再び滝坂道に戻って、先へ進みます。  ●「淡島交差点」手前で左に分かれ、南下します。 11:11

 ■淡島~
 左に入ると、すぐに●北沢川緑道と出合います。 目黒川に合流する、北沢川が暗渠化され、上を緑道化している。流れているせせらぎ水は下水処理水によるもの。 ここにはかつて大石橋が架かっていて、親柱が残っている。 その先の五叉路の角に●庚申塔、日本廻國供養之石塔、三界萬霊塔、などが並びます。庚申塔の脇を通過して、淡島通へ出る訳だが、ここで又々、寄道して行きます。
 南下して「三宿の森」方面へ向かいます。鳥山川が削った谷に向って下るようになっています。右手に●三宿の森緑地。かって、世田谷領主、吉良氏の居城である「三宿城」があった所といわれます。 11:20

      ~太子堂(寄道)
 公園の南側にあるのが●三宿神社。城内に多聞寺という寺院も創建されたが、明治時代に廃仏毀釈の為、廃寺となり、三宿神社と姿を変えた。その為、神社の横に墓地が残る形になって、寺の名前は「区立多聞小学校」に伝わっています。 神社の石段を下りた先を右手に巡って行くと、●円泉寺がある。聖徳太子を「太子堂」があり、付近の地名はこの太子堂にちなんでいる。寺伝によると、文禄4年(1595)、賢惠和尚が大和国久米寺より聖徳太子像と十一面観音像を背負って当地を訪れたが、夢で太子のお告げを授かり、こ地にお堂を建て、太子像と観音像を安置したというのが初めという。 寺の西側の角に"林芙美子旧居跡"の案内が立っていて、その奥が●「放浪記」で知られる作家、林芙美子の旧居跡といわれる。が、二軒長屋というのがよくわかりません。11:35

 ■太子堂~若林陸橋
 「代沢十字路」で淡島通りへ出て、左折します。 信号二つ先の「代田中筋バス停」付近で●滝坂道は右に分かれて行きます。 この通りはまもなく●環七通りにぶつかってしまい、すぐ先に旧道が見えるものの、交通量が激しく渡れません。 そこで、左に曲がり、「若林陸橋」を渡ることにします。2車線で来た淡島通り(都道423)は●若林陸橋の西80mほどで突然終点となっています。 金網の向こうに石仏が見え、墓地があったらしく、改葬公告が立っていました。その先の都道423は細くなり、住宅地の中をクネクネと通り、豪徳寺北側で滝坂道と合流するようになっています。 11:56

 ■若林陸橋~豪徳寺1丁目
 旧道へ戻るべく、金網を右折すると、「教育センター」の手前、左手に"庚申塔が2基" あります。 その先で環七通りから伸びてくる●滝坂道に左折して合流しました。 右手にあるという馬頭観音は確認できなかった。 まもなく、右手に入ると●杓子稲荷神社があります。"説明板" 町中の小さな神社だが、案外由緒が古く、室町時代に世田谷城主・吉良治家が城の鬼門鎮護のために伏見稲荷を勧請したものだそうです。変わった名前の由来は食物の杓子の「掬う」が「救う」に通じるということで、すべての病難・災難を払い、福徳円満・長寿開運・万福招来の象徴ということだそうだ。 滝坂道は●豪徳寺1丁目の四つ角町で直角に左に曲がり、「旧松原宿」に入ります。 12:23

 ■豪徳寺1丁目~豪徳寺
 左折した先、豪徳寺1丁目と梅丘2丁目との境界が●松原宿です。世田谷城主吉良氏が設け、270m位続き、●出口の所で直角に右に曲がります。入口と出口で鍵型に曲がるという宿場の状態を良く表しています。 南方、豪徳寺あたりに世田谷城があり、鍵型に曲がるのは城の防衛の為だと思われます。出口右手角に●地蔵馬頭観音が立っています。 ここを右に曲がります。右壁に"滝坂道案内板"が架けてありました。 12:30

 ★豪徳寺
 右に曲って、途中で左折、住宅を抜けると豪徳寺裏門へ出た。が、開門しておらず、表門へずっと回り込みました。●豪徳寺山門。創建は文明12年(1480)。世田谷城主・吉良政忠が伯母の「弘徳院」の為に世田谷城内に小庵の「弘徳院」を建てたのが始まりです。 江戸時代、世田谷が井伊家の領内になったのを機に、寛永10年(1633)、井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を整備し、寺号を「豪徳寺」とした。 寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。 井伊家の菩提寺になった「招き猫伝説」は本当かどうかわからないが、一番有名ではないだろうか。他の説も「浅草今戸神社」とか色々あります。 境内の●三重塔は平成18年に建立された新しいもの。西側に「井伊家墓所」があり、●大老13代井伊直弼の墓をはじめ、歴代藩主や正室たちの墓が並んでいます。"説明板"   12:42

 ■豪徳寺~宮坂2丁目分岐
 山門を出て、右に曲がり、東急世田谷線、「宮の坂踏切」を越えると●世田谷八幡宮があります。後三年の役(1083~87)の時代、源義家が奥州からの帰途、大雨に降られてこの地に逗留し、その際に源氏の氏神である宇佐八幡宮の分霊を勧請したのが始まりという。中世では吉良家の祈願所として、江戸時代では家康が11石の朱印地としている。 世田谷線に沿った「宮の坂」を上がり、「松原宿」出口から伸びてくる●滝坂道に合流しました。 右手に「乗泉寺別院」、「常徳院」を見つつ、●"地蔵尊と庚申塔"がある分岐で、滝坂道は二つに分かれます。世田谷区史では、左に行くのが旧村道、右が滝坂道である・・と云っている。 左の村道と云われる道には、庚申塔、地蔵尊、道標などが点在し面白そうでもあるし、両方歩くべきかとも思うけど、そんな余裕もないしで、ここは面白そうな左の道を歩くことにしました。 両方の道はこの先「経堂小学校」付近で合流します。 13:10

 ■宮坂2丁目分岐~
 左に入る道はすぐに二股に分かれ、ここは右へ行きます。左手は●農地になっています。世田谷区と云っても、昔は田園地帯なので昔の面影が残っている所です。  また、このあたりには●立派な門を持つ旧家があったり、敷地内にケヤキの巨木がそびえていたり、する屋敷が点在したりします。 その先で、経堂駅南口から南に伸びる農大通り商店街と交差しますが、その角に●道標を兼ねた庚申塔があります。文化9年(1826)のもので、「正面 南二子道、東側 青山道、西側 ふちうミち(府中道)」と刻まれている。
13:20

     ~経堂2丁目
 その先、1本目を右に入ると、●福昌寺です。この寺については、「経堂」という地名の由来とする説が伝わっているという。・・この寺の開基となった松原土佐守弥右衛門は、中国から帰化した人物で幕府の御殿医であった。松原は、屋敷内に多くの医学書などの書物を蔵していたが、土地の人は、その書物を経本とみなしていて、松原の屋敷を「経堂」と呼んだために、この付近の地名も同じく経堂と呼ばれるようになったという・・(異説あり)。 さらに進み、●経堂駅の高架をくぐるが、その手前、右側に"馬頭観音"があります。 これも道標を兼ねており、「右面 南ふたこ道 正面 西ふちう道 左面 北たかいど道」となっています。方角が少しおかしいかなと思います。 ガードを潜って左へ進み、すぐ、斜め右に入る「経堂西通り商店街」へ入ります。商店街を進むと、自転車店の前に●地蔵尊あり"「経堂子育地蔵尊」" といって親しまれているようです。ここを右へ曲がります。13:30

 ■経堂2丁目~桜上水1丁目
 経堂地区会館の前を過ぎ、やがて左手に●小さな山谷稲荷神社があり、フェンスで囲まれて、立入禁止の状況です。なにか事情がありそうですね。 ここで突き当たりとなります。 塀の向こうは「恵泉女学園」。塀に沿って行くと、経堂小学校の正門で、先ほど分かれた●滝坂道と合流します。 合流して進むと、「船橋5丁目」四差路で"「赤堤通り」"と合流します。 すぐ先、右手に●カノッサ修道女本部と幼稚園のきれいな建物がありました。さすが世田谷区という感じ。 13:40

 (追 記)
■分岐~経堂小学校(本来の滝坂道)
 4月28日 奥方と豪徳寺散歩する機会があったので、分岐から真っ直ぐ進む、●本来の滝坂道を歩けました。すぐ左手に"小さな稲荷社" があります。ここを過ぎると「経堂本町通り」という商店街に入り、「経堂駅」まで続きます。駅手前を左に入ると、あるという「本村稲荷」はちょっと見逃してしまい、「経堂駅」ガードをくぐります。 駅北口の正面には●小さな天神神社がビルに挟まれて、ひっそりとあります。祭神は菅原道真。由緒その他は不明。 駅からは●「すずらん通り」という商店街になって、進み、「経堂小学校」前で左手から来る村道と合流します。この道は神社が三つあるくらいで、旧跡の類はあまりありませんでした。

 ■桜上水1丁目~八幡山2丁目
 「カノッサ修道女本部」を過ぎて、「城南信用金庫」の向かい側にに水道辻の道標という小さな道標があります。文字は読みにくいのだが、正面には「向 土手 右 千歳役場 左 宮坂停留場」の文字が刻まれているらしい。 宮坂停留場とは滝坂道と世田谷線の交差する地点、世田谷八幡の北側にかつて存在した駅だったという。 右手の「ヨークマート」は閉店していました。 ここで"赤堤通り」は右手へ"分かれ、滝坂道は真っ直ぐ進みます。 すぐに、世田谷区を一直線に貫く「荒玉水道道路」を横断、その先、もう1本広めの区道を横断すると●ドラッグストア前にぶつかります。 ここで滝坂道は途切れてしまうので、ジグザグに斜め左へ向かい、八幡山1丁目に鎮座する●八幡社の前あたりで旧道と合流します。この神社は八幡山の地名の由来となっています。 八幡社前からさらに進むと、右手に明治大学のグラウンド、日大学生寮などが見えてきて、坂を下り、正面に●千歳清掃工場の煙突が見えてきました。
 14:00

 ■八幡山2丁目~榎交差点
 やがて環八通りの●千歳台交差点に到着。滝坂道は西へ向かいます。北西側には徳富蘆花亡くなるまで暮らした旧居跡である、蘆花恒春園が広がり、道の北側には「せたがや百景」に選ばれた"「廻沢のガスタンク」"(粕谷の旧名)の巨大な球形タンクが5基並んでいます。 ●南側に「東京テラス」のマンション街が広がるあたりは、桜が満開を過ぎた感じですが、雰囲気が感じられます。
 左に「世田谷区立千歳中学校」、右に「都立芦花高校」などが続き、やがて●榎交差点で左折します。 14:30

 ■榎交差点~神明社前
 左折すると、「安穏寺坂」という坂を仙川が造る低地へ向かって下りて行きます。右手に安穏寺があります。元禄年間の創建という。安穏寺坂を下りきったところに、●地蔵堂や庚申塔、馬頭観音などが並んでいて、いかにも古道らしい風情を残します。
  その先、左に「祖師谷公園」があり、●仙川を宮下橋で渡ります。このあたりが一番の低地で、「祖師谷」は仙川が刻んだ谷に由来します。橋から先、上り坂ですが、左台地上に●神明社があります。旧上祖師谷村の鎮守で、元禄年間の創建という。14:42

 ■神明社前~滝坂入口
 神社前の次の信号で「成城通り」が分かれていき、更に進むと、左手に"庚申塔"あります。天和2年(1682)に建立されたもの。 やがて世田谷区から調布市に入ります。道の北側が仙川町、南側が若葉町です。 ゴールが近くなり、左に「桐朋学園」などを見つつ、「京王線」を越えます。昔はそのまま真っ直ぐ進んで「滝坂」に直結していたものが、少し右に折れ、坂を下ると●仙川2丁目交差点で「国道20号・甲州街道」に合流しました。 国道を左に少し曲がり、右手の●滝坂入口へ入ります。入口右手の建物は「馬宿 川口屋」という建物で、入口に"「瀧坂旧道」の石碑" が立っています。 15:10

 ■滝坂道入口~つつじヶ丘駅
 ●旧滝坂。甲州街道歩き以来、二度目の再訪。 国分寺崖線の斜面を下る急坂で、坂の名前は雨が降ると、水が滝のように流れ下ったことに由来するといいます。国道の方も国分寺崖線の斜面を下ってくる訳だけど、切り通しによってかなり緩和されている。この旧道の滝坂もかなりの急坂だが、昔よりはなだらかだと云われている。左手に●薬師如来像と首のない地蔵。旧道の面影を感じます。
 坂を下りきると、国道20号に合流し、滝坂道は以上で終りとなります。 ●京王つつじヶ丘駅から帰宅しました。 15:20