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58 関ヶ原宿この地は宿場というより、天下分け目の「関ヶ原の合戦」が起きた場所として有名である。元々北に伊吹山、南に鈴鹿連峰をひかえた狭隘な地形で、東西交通の要衝であった。その為「壬申の乱」の戦場ともなり、その後「不破の関」が置かれたりしていた。宿としての町の長さは美濃16宿で「加納宿」に次ぐ長さで、12町49間((約1.4km)東町、中町、西町があった。現在は国道が宿内を走り、宿の面影は薄いが、関ヶ原合戦の旧跡がたくさん残っている。 本陣1 脇本陣1 旅籠33 |
![]() 2009年10月25日 垂井宿からの続き垂井から関ヶ原町に入り、右手に見える |
![]() 宿に入ってすぐ左手に見られるのは昭和の初めまで「若宮前」などにあった、この先は「JR関ケ原駅入口」で、入口手前には |
![]() ![]() 駅入口を越えると右手に見えてくるのが 脇本陣跡を越えると、右手へ入る狭い道があるが、ここが「北国街道」で、当時曲がり角には「本陣」があったという。今は北国街道を少し入った所に |
![]() 合戦の史跡を見ないのもつまらないと思い、街道近くのものだけ見ておくことにした。神社の脇を過ぎ、JRの跨線橋を越えるとすぐ左手にあるのが、東首塚跡といい、合戦直後に、この地の領主「竹中家」が築いたもので、家康によって首実検された将士の首が、此処に眠っています。ここにはその時首を洗ったという「首洗い井戸」や「供養塚」なども残っている。戦国期の戦場では、首実検後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのが慣わしだったようです。入口に 「関ヶ原駅」北方には「家康最後の陣地跡、「三成陣地跡」など旧跡が沢山点在しているし、NHKの大河ドラマもここが舞台の一つであり、レンタサイクルで回ると便利かと思う。 10:20 |
![]() ![]() 街道に戻り先へ進む。関ケ原西町信号」に出ると、ここから西町で、ここにはいくらか古い家並みが残っている。 左手に |
![]() 西首塚を出ると道路が |
![]() ![]() 旧道に戻ると、そこは古代の「東山道」であり、 更に進むと、北側へ入る小道があり、奥の畑の中に |
![]() ![]() すぐ先が二手に分れ、左手の下り坂が旧道で、ちょうど左手の家に 672年「壬申の乱」が起り、この付近で「天武天皇軍」と「近江朝廷方・弘文天皇軍」が対峙し、ここで合戦が行われた。勝利した天武天皇はここに「不破の関」を置き、通行人などを調べることにした。この付近は山と川に挟まれた溢路で、関を設けるのに都合がよく、関の規模は約650㎡程といわれる。越前(福井県)の「愛発」(あらち)、伊勢(三重県)の「鈴鹿」とともに古代律令制下の日本三関といわれている。 現在は「三輪家」の庭になっているが、三輪家は代々関守だったといわれており、 |
![]() ![]() 坂を下ると藤古川を越えると、先は急な上り坂になり、この坂を上ると左手に |
![]() ![]() 御陵候補地跡を出ると中山道は国道を横切って「山中」と呼ばれる集落へ入って行く。しばらく歩くと 黒血川を越えると左手に見えるのは |
![]() ![]() 鶯の滝を出るとまた道路が二手に分かれているが、右に行くと右手奥に |
![]() 線路を越えると、緩い上り坂に変わっているが、ここが峠を上るとすぐ緩い下り坂に変わて |
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