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56 赤坂宿東海道の赤坂宿と同名で、区別するために「美濃赤坂宿」と呼ぶことがある。このあたりは石灰や大理石の生産、杭瀬川の船運を中心に栄えた地域で、平安時代末期には「杭瀬川宿」ができていたとされ、江戸時代には、「赤坂港」が設けられ、米、材木、酒、特産の石灰などが「桑名」あたりまで運ばれた。往時は上り下りする舟が数百艘も見られたという。この舟運も大正に入り、鉄道に取って代られ衰えていった。今では公園に痕跡が残るのみ。 本陣1 脇本陣1 旅籠17 |
![]() 2009年10月24日美江寺宿よりの続き赤坂大橋を渡ると 手前の左手には |
![]() ![]() 杭瀬川は今流れている場所より西へ200m位の所を流れ、揖斐川の本流であったといわれる。享禄3年(1530年)の大洪水で水路が大きく変わり、川幅も狭くなって支流となってしまったが、上流の「池田山」からの豊富な湧き水で港としての機能は十分に果たし、江戸時代には「赤坂港」が設けられ、舟運が大正時代まで続いていた。後に鉄道により衰退し、現在では公園にその姿を残し、 |
![]() ![]() 公園内の建つ 宿の長さは七町十八間(約730m)、宿内人口は1129人、家数は292軒」とあり、道の両側に旅籠風の建物や、古い建物も残って、風情ある情景が残っていた。大理石の会社があり石灰の産地でもあった。 |
![]() 左手の公園が奥に建つ銅像は赤坂出身の幕末の蘭医学志士 |
![]() ![]() 本陣の先は少し枡形のように曲って、ここに 左手には |
![]() 和宮の江戸降嫁に際し、建物が見苦しくては失礼だということで、街道に面した建物の建て替えが一斉に行われた。一見二階建ての様な建物が造られ、工費は10年返済だったが幕府が瓦解し、返済金は3年程でうやむやになってしまって宿は大喜びだったとか。 |
![]() ![]() 宿も終りに近づき、 左手のこんもりした場所に赤坂宿御使者場跡 の石碑があり、階段を登ったところに、「 関ヶ原の決戦の前日杭瀬川の戦にて戦死した東軍の中村隊の武将野一色頼母を葬り、鎧兜を埋めた 」 と伝えられる 右手の |
![]() ![]() JRガードを越すと「青墓」という地名で、右手に |
![]() 小栗判官と照手姫の伝説は、藤沢の「遊行寺」、熊野の「湯の峰温泉」などに残っているが、ここでは青墓の長者から籠で水を汲めなど無理難題を押しつけられ、2kmも離れたこの井戸へ毎日水汲みに来ていたと伝えられている。 「県道216号線」へ出る前に「中山道」の道標があります。このあたりは、中山道が開設される前の、東山道時代に、青墓宿駅として栄えた所で、「遊女が大勢いた」といわれる。 また、平治の乱に敗れた源義朝はここで、次男朝長を失い、自身は尾張国・野間まで殺された。しかし杭瀬川の渡し利用者で赤坂が重宝され、やがて赤坂宿が固定されていき、青墓宿は衰退していった。 16:00 |
![]() ![]() 県道216号線を斜めに横断して進み、しばらくすると右手に「国分寺への常夜灯を兼ねた道標」がある。少々暗くなってきたが右折して国分寺跡へ向った。 天平13年(741年)、聖武天皇の勅命により全国に国分寺・国分尼寺が造営され、美濃国はこの地に七堂伽藍をもつ壮大な寺院が建てられた。しかし鎌倉時代以降律令制の崩壊と共に荒廃し、現在では礎石を残すのみとなっている。 が、訪れるとその壮大さに驚かされ、中々素人写真ではその広大さが表現できないのがもどかしい。ずっと奥の方に現在の「美濃国分寺」が見えるけど行く暇がなかった。 16:15 |
![]() ![]() 国分寺道道標を過ぎると、右手に「常夜灯」と「一里塚跡碑」がある。 ここは真っ直ぐ南西に歩いて行く。昔は 広大な野原だったそうだけど今は工場が多い。「大垣市」から「垂井町」へ 変り、右手には 御坊道」道標も見られるが、平尾御坊とは右折した先600m奥にある「願證寺」のことをいうのだそうだ。道標の右手には2体の石仏が祀られていた 。 16:30 |
![]() 、やがて「追分」という交差点へ来る。本来の追分はこの先の「追分橋」の所で、「中山道と大垣道がぶつかる賑やかな場所だったそうだ。角に |
| 55 美江寺宿へ |
57 垂井宿へ |