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47 大湫宿(おおくて)大久手とも書かれる。「くて」とは、沼地や湿地帯ことをいう。大井、御嶽間が八里もあるため、両宿の中間に慶長9年(1604)に置かれた。宿の町並みは十三峠の寺坂を下りた北町から、白山町、中町、神明町、西町までの約3町(340m)の街道に沿った細長い宿場であった。大湫は山中の小さく寂しい宿場にもかかわらず、十三峠を控えて、多くの旅人で賑わい、和宮降嫁の時もこの宿に泊っている。現在は鉄道も大きな国道も通らず、不便な所となっているが、静かな落ちついた町並となっている。 本陣1 脇本陣1 旅籠30 |
![]() 2009年8月25日 大井宿からの続き坂を下って大湫宿へ入って来た。3時半を過ぎて、細久手の大黒屋さんまで、あと6㎞ほどで、途中琵琶峠を越すので急がないといけない。 枡形を左折すると大湫の町並が続き、この通りにほとんどの建物、公民館などが集中している。枡形手前に唯一の商店と思われる「若竹屋」さんがあり、自動販売機でお茶が買えた。本陣は無くなっているが、結構古い建物が残っている。 15:40 |
![]() ![]() 案内図を見ると、枡形から高札場まで3丁ほどで小さな宿であったが、旅籠は30軒もあった。すぐ左手に旅籠だったであろう、 |
![]() 和宮が宿泊したことを記念し、校庭の脇に 遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり |
![]() 宿の中程に右手、街道から石段を上がり門の奥に 脇本陣を務めた「保々家」は宿の庄屋・問屋役を代々兼帯してきた家柄だそうで、規模を半減しながらも母屋や門、庭を残している(現在も住宅として使用されているので非公開)。ちょっと玄関先だけおじゃまさせていただく。この脇本陣は部屋数19、畳数121畳、別棟4という広大な建物でした。 |
![]() 脇本陣の先の右手に 宿の中央にあり、慶長13年(1608年)に再建されたといいます。境内の 幹周り約11m、高さは約60mもあるそう。 神明神社を過ぎれば西町。宿毛終りに近づく。道幅が狭くなり、京方外れに高札場が置かれていた。 15:50 |
![]() ![]() 高札場跡~二つ岩高札場を出て、道は二手に分れるので右へ行く。 左手に「紅葉洞の石橋」という案内はあるが、よくわからない小さな石橋がある。少し先の左手に |
![]() ![]() 安藤広重の絵にもある、花崗岩が露出したものだそうだ。手前が母衣岩(ほろいわ)、先にあるのが烏帽子岩(えぼしいわ)の順で並んでいる。地質の関係だろうけど、この当りには大きい岩が他にもある。 どの道中記にも紹介されているというし、広重の絵には相当誇張されて描かれている。 また岩の形から「夫婦岩(陰陽岩)」とも呼ばれ、中山道で有名な存在でしたという。 |
![]() ![]() 二つ岩を過ぎると、左手に大きな病院「大湫病院」を見て行くと、「琵琶峠の説明板」があり、ここが中山道、 十三峠を越えて来て、まだあるのか・・という感じで、ヤレヤレもうひとがんばりせねばいけない。(¨;) 琵琶峠の1,028mは往時の面影を残す道標・石仏・一里塚も現存し、昭和45年には |
![]() 石畳の道をずーっと上がって行くと、程なく頂上に着く。頂上には 16:20 歌は・・・ 「住み馴れし都路いでてけふいくひいそぐとつらき東路のたび」 道はここから下り坂の石畳道で、やがて 江戸へ91里、京都へ43里という道標で「琵琶峠の一里塚」とも呼ばれています。一里塚のあるこの琵琶峠は、けわしい反面景色にも恵まれ、江戸時代の旅日記にも峠からのことが多く書かれて中山道の名所の一つにも数えられていました。案内より |
![]() ![]() 一里塚の先は やがて道の両側に珍しくも |
![]() 北野天神へ行く道は大回りをして、道をどんどん進み、 鴨ノ巣一里塚も両塚が残っていた。次は、本日のゴール「細久手」に入るわけだが、工場が旧道をふさいでいるので、迂回して入った。 ヘトヘトで5時半に |
| 46 大井宿へ |
48 細久手宿へ |