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44 落合宿落合宿は信濃から美濃へ入る最初の宿場町で、宿内は東から横町・上町・中町・下町と続き、町の長さは約390m、旅籠14軒の小さい宿場であった。宿は文化年間、2度にわたる大火に見舞われ、現在はあまり古い町家を残していないが。本陣井口家やわずかに残る卯建の上がる家や格子のある町家などで旧街道の面影を偲ぶことができる。 本陣1 脇本陣1 旅籠14 |
![]() 2009年7月26日 馬籠宿からの続き。只今12時半を過ぎ、本日3時頃の電車で中津川から帰りたいので少し急がないといけません。「高札場」の碑から 12:45 |
![]() ![]() ![]() 落合宿は小さな宿で、長さは390m程。文化2年(1804年)、同12年(1815)の二度の大火で宿内ほとんど焼失してしまった。現在はあまり多くの古い町家を残していないが、本陣井口家やわずかに残る格子のある町家などが残っている。中央に用水があったが、明治時代の天皇巡行の際、端に寄せられたとか。あいかわらず人出があまりない。 |
![]() ![]() 建物は新しく、ただ案内標柱が立つだけ。本陣と共に問屋を兼ねていた。 宿の中程にあり、「明治天皇落合御休止所」の碑が立つ。建物は文化12年の大火に見舞われ、その後に再建されたもの。特に表門は火事見舞に加賀藩から贈られたものがそのまま残っている。 中山道全域に現存する本陣のうちでも当時の姿をとどめた、最も状態がよい建物の一つですと。現在は住宅として使用され公開されていないようだ。 |
![]() その先左側に、見たことのない珍しいものがある。皇女和宮の大行列(4日間で延べ2万6千人)が宿場を通行したとき、暖かいもてなしをするために各家の竈は引きも切らず炊き続け、この釜は寒天の原料の天草を煮た大釜で、直径1.5m、容量1000リットルを越えるという。 宿の終りは枡形跡で左折して行くが、右手に善昌寺があり、路上に大きく一本の松が張出している。「路上の松」と呼ばれ(別の案内板では「門冠の松」という)ている。善昌寺は慶長五年(1600年)の創建で関市ある龍泰寺の末寺で、明治24年の道路拡張工事で寺の一部が道路となり、寺は東へ移設された。境内にあった松はそのまま残されたので路上に松だけが残る。 12:55 |
![]() ![]() 松の所で旧道は左折(西へ)して行く。 角に大きな「道標」が立つ。「右至 中山道中津町 一里」は明治になってからの道標です。 左折して「向坂」という急坂を上がっていくと国道に出ます。旧道はそのまま下りて国道を横断するのだけど、横断できないので手前の橋を渡り国道を横断します。横断した先正面に 落合五郎は「中原兼遠」の三男で木曽義仲を育てた人物として知られている。館跡とされている所は、「オガラン」と呼ばれ「伽藍」(大きな寺)という言葉からきたと推定されるとのこと。 13:05 |
![]() ![]() この先は国道を挟んで旧道が消えているので、館跡を過ぎて、案内板に従い迂回して、国道のトンネルをくぐり中山道へ合流します。 合流した所が ようやく上がって行くと、ほっとした感じに 13:20 |
![]() 与坂を出ると今度は急激な下り坂で、これはこれでかなり疲れる。三五沢橋を過ぎると、上り坂に変り、左手の原っぱに 一里塚を過ぎて、登る坂を「まき坂」というとか。やがて右手に石垣だらけの神社が見えてきて 神社の名前は御嶽山を開いたという「覚明行者」(1781~1789)の名にちなむ。 13:30 |
![]() ![]() 神社を過ぎると又急な下り坂で「子野橋」を過ぎると緩い上り坂に変ってくる。それにしても落合から中津川にかけての道はアップダウンの連続で、昔の旅人にとってはかなりの難所だったろうと思う。 国道にぶつかり「地下道」をくぐり、出ると 舗装道を行くと、右手に |
![]() ![]() 番所跡から旭ヶ丘公園へ来ると、一角に ・・・ 「山路来て 何やらゆかし すみれ草」・・・ 貞享2年(1685)3月ころの句で、句碑は安永2年(1773)の芭蕉80回忌に建立されたもの。 さて、中津川市街が眼下に見えてきて、句碑の先は |
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